忠海港からフェリーで15分ほどで行ける距離にあり、うさぎ目当ての方やキャンプ、釣りを目的として島に行かれる方が多い印象を受けた。
フェリーに乗り、島全体が見え始めてきたときに異様な建物の存在に目がいった。
それが、発電場跡である。
大久野島は毒ガス島とも言われ、旧陸軍造兵廠火工忠海製造所がこの島に配属されたことで1929年から毒ガス製造が始まったと言われている。年間生産量は多いときに1500トンにまで達していた。しかし、毒ガス製造は国防上外部に知られてはいけなかったため、当時の地図からこの島は消されていた。
また、製造者には貧しい家庭の子供が「科学の勉強をしながらお金をもらえる施設がある」などと誘われ、自分が毒ガスを製造しているという事実を知らぬまま労働していたと言われている。さらに、島で勤務する際には「島で見たり聞いたりしたことは口外しないよう」という事を約束させられたという。
このトンネルを潜ったさきに、フェリーから見えた異様な建物と映った発電場跡
無機質なコンクリートの建物であるが、建物に記された「MAG2」という文字が
印象的で「異様な不気味さ」を感じさせる。
大久野島にて毒ガスを製造したいた際に電力を供給していた発電場跡
ディーゼル発電機が8基設置され、いずれも重油を燃料にしていた。
ここでは、風船爆弾(太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した無差別爆撃兵器である)風船を膨らませ、弱い部分を補修する作業も行われていた。
窓枠から入ってくる陽射しが綺麗で建物の後ろの木々の緑と薄暗さを感じる建物との
コントラストに目を奪われる。
長浦毒ガス貯蔵庫跡
旧陸軍は1929年から終戦まで、この島で密かに毒ガス製造を行っており
主な製品はイペリットとルイサイトで、いずれもびらん性ガスと呼ばれ皮膚をただらさせる
性質を持ち、年間生産量は多いときに1500トンに及んだ。
第2次世界大戦後、進駐してきた連合軍の指示のもと、この島にあった毒ガス工場や製品を
1946年から1年かけて薬品で消毒したり、太平洋の沖に沈めたり、火炎放射器で焼いて処分していた。コンクリートの内側の黒い焼け焦げた跡は、当時火炎放射器で焼却した跡である。
ちなみにこの島では5種類の毒ガスが製造されていた。
イペリット - 皮膚についただけでただれ、発がん性あり。
ルイサイト - イペリットより強力で即効性のある毒ガス。繊維やゴムなどを透過する。
ジフェニルシアノアルシン - 気道や眼を強く刺激し、催涙効果がある。
嘔吐剤とも呼ばれる。
クロロアセトフェノン - 現在も催涙スプレーとして市販されている。
目に入ると激しい痛みを感じる。
青酸ガス - 大量吸収は即死し、少量でも嘔吐、めまいがする。
この島で製造された毒ガスの総重量は6,616tもあり、全て使用すると地球上の全人類を死滅させられる量と言われている。
三軒家毒ガス貯蔵庫跡
びらん性毒ガス「イペリット」が貯蔵されており、管を使って工場から直接タンクに毒液が送り込まれていた。また、イペリットやルイサイトなどの液体毒ガスは腐食を防ぐため
内部に鉛を張り付けたタンクに保管されていた。
無機質なコンクリートが物語る島の歴史に、ただ単に「画になる廃墟」だけでなく
日本軍が、このような毒ガス製造に着手し製造していた事実を知ることが出来たのは
非常に学ぶべき点があったと個人的に感じている。
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